スポーツの現場では当たり前のように”流れ”という言葉を使う。流れがきた、流れが来ない、など。統計を扱う人が聞けば、それはただの偏りに過ぎず最後は平均値に収束すると言われるかもしれないが、現場に立っているとどうもそうだとは言い難い”流れ”を確かに感じる。
敢えて言い切れば”流れ”とは集団心理の揺らぎのことである。組織の勝利の一端を担っているという緊張感と重圧、あいつがやれるなら俺だってという勇気。人間が環境に影響される様々な心のありようが身体の動きに影響を及ぼし、それが流れを生む。
前の選手がミスをする。俺が挽回しなければと次の選手が力む。力みは焦りを産み、無意識に普段とは違う行動を取らせ、ミスの確率をあげる。そうこうしているうちに流れが悪くなり、あれよあれよという間にチームが崩れていく。
一方で、予想外にいいプレーをする。チームが乗ってきて、いっちょ俺もやってやるかと勢いづく。俺がやってやるという点では流れが悪い時もいい時も変わらないけれど、一番違うのは前者には力みと義務感があり、後者には前向きさと挑戦心がある。成功してみせると、失敗してはならないは大きく違い、スポーツの勝負はそのほんの少しの心理の違いが勝敗を分ける。
流れは予想外が発端となることが多かった。エースがエースらしく快走したり、補欠寸前の選手がなんとかたどり着くようにゴールするよりも、エースが崩れたり、補欠寸前の選手が好走する方が流れが生まれたように思う。
奇跡と言われるようなことが起きる時、勝負の最中に兆しのようなものを皆が見つけそれを共有する。そして次第に本当に自分たちにはできるのではないかと信じる気持ちが広がっていく。信じられないようなことが相次ぎ、俺も俺もと勢いがついていきそのうちに奇跡を起こしてしまう。信じれば力は出る。ただ信じることほど難しいことはない。
流れを呼び込む方法は具体的にはなかったけれど、この三つの事を意識することが崩れてしまわないために、また流れを掴むために大事だった。
1、起きたことの意味を考えない。ひたすらにいまに集中する。
2、勝負の時はつい視野が狭まる。苦しいときほど洗面器から顔をあげる
3、期待に応えようとしない。無邪気さを失わない。
流れなどただの後付けの勘違いかもしれない。ただのある一部分の揺らぎに過ぎないのかもしれない。それでもスポーツの現場では流れを確かに感じ、それをどう掴むかに私たちは必死になる。