手段の目的化というものがある。速く走るために必要なスキルがあるとして、その習得に一生懸命になっているうちに、そのスキルの習得自体が目的になってしまうというもの。本来の目的が何だったのかを見失ってしまうこと。
私が前にやっていた競技はシンプルで、ピストルがなってからルールの範囲で走り、ゴールに最も早くたどり着いた人が勝者だった。ゴールはトルソーと言って胴体で測定される。胴体がゴールに早くたどり着きさえすれば、足が速くなくても構わない。
一生懸命に競技をやっているうちに、だんだんと妙なこだわりが生まれてくる。足を速く動かすことにこだわったり、綺麗に動くことにこだわったり、速く走る方法を説明することにこだわったりするようになる。そうこうするうちに本来手段であったものを、いかにこれが優れた手段であるか証明したいという気持ちにかられてくる。こういう選手は気付かない間に手段が目的が変わっている。現役でいながら実際のところは評論家か研究者かコーチにすでになっている。
どうやら社会では頭が良い方がいいというのがなんとなく引退してみてわかった。最初引退して頭がよくないと成功できないのかとびくびくしていたけれど、どうもルールはそうではなさそうだということに気づいてほっとした。頭が良くても勇気がないと挑戦がなく、挑戦がない人は成功も成長もしない。下手な鉄砲も打ちまくってるとそのうちにどこに打てばいいかわかってくる。頭が悪いなりに戦い方がある。目的は賢くなることではなく、成功すること。
人生の成功はなんだろうか。それぞれに違うけれど、少なくともそのために手段はある。必要なら頭がよくなればいいし、必要なければばかでもいい。頭も手段、全ては目的を達成するためにある。すごくなりたいのか、すごいと思われたいのか。その境目は思っているよりも大きい。
目的はなにで、手段はなんなのか。少しぐらい頭が悪い方がわかりやすくて成功しやすいかもしれない。