おそらくどの国でも苦しくなってくると、弱者を叩くということはよくあるんだろうなと思います。生活保護に関しては一部の(たぶん本当にごく一部なんだろうと思うのですが)人々が不正受給をしていたなどの報道があり、生活保護許すまじとなっている人が一定数いるのでしょうか。
こういった報道を見るたびに、私は一つの炎上体験を思い出します。
この際の反論は要約すると二つになろうかと思います。
”努力すれば夢は叶うとは限らないが、努力するには夢が叶うと信じられなければならない。人が頑張るためにもそれを言うべきではない”
”人の才能には突き詰めるとさほど差はない。差は努力によって生まれるので、この理屈は間違えている”
努力には意味があると思うためには、仮に幻想であったとしてもいつか報われるという方便がある程度必要なんだろうと思います。誰も死後の世界があるかどうかもわからないし、いいことをすれば救われるかどうかもわからないけれど、それをみんな信じておいた方が世の中がより円滑に進む、というものがありますが、似ているなと思います。真実であるかどうかより、そうしておいた方がよいかどうかが重要ということです。
スポーツの世界は他と比べてかなり才能が影響しますが、引退してみると社会ではそれほど才能は勝負を決める大きな要素ではないと気がつきました。こう言ってはなんですが、あまり努力していない人も少なからずいて、当然差はついてしまうのだろうと思います。なので、確かに環境と才能と努力でいえば、努力の占める割合はそんなに小さくないのかもしれません。
ただ、前提にしつつも私はやはり人間には持って生まれた才能と、そして生育環境にはかなりの差があると思っています。そしてそれはいわゆる自助努力、努力では覆しにくい。ただ、では諦めるしかないのかというとそうではなくて、少しサポートをしたり仕組みを作れば人は努力できるようになるのだと思います。生活保護とはそういった類いのものだろうと認識しています。
大阪大学の大竹先生の研究で、子供時代に人間の能力には差がないという認識が強い環境で育つ人ほど、弱者に対して厳しい傾向にあるというものがあります。
人間の能力には差がない→現状に差がある→能力には差がないから、この差は努力の差である→よって差は自助努力によって是正すべきである
つまり、アリとキリギリスのように見えているわけですね。平等な社会をと思い、能力差をなるべく隠して育てた結果、社会の格差是正に反対の立場をとる傾向が生まれるというのはなんとも悲しい話に感じますが、考えてみれば努力を重視する人は努力しない人には辛辣な態度をとる傾向にあるのは確かにうなづけます。
私の好きな話で、全盲の人と、車椅子の人が二人で出かけるというものがあります。車椅子の人が指示をし、全盲の人が椅子を押す。人間に優劣はないが、状況によって人に有利不利はあるので、それを創意工夫でしのぐことが重要なのではないか。柔らかで寛容な社会とはそういったものではないかと思っています。
ちなみに貧困の連鎖を説明した本でおもしろかったです。今、足りないから将来も足りなくなるということが理解できます。
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