ダイバーシティという言葉をよく聞く様になった。日本語でいうと多様性になるのだと思うが、要はいろんな人やいろんな考えということだと思う。ソーシャルインクルージョンという言葉も出てきて、社会はこれからとにかく多様なものを内包していく方向に向かうのだろう。
多様性の議論は、女性の話、またはLGBT、さらには障害者の方の話が中心になることが多い。”それは狭い範囲で本質的な議論はもっとマイノリティの人を含むことだったり、さらにはすべての人が自分らしくあることだ”という意見もある。
一方障害者というのはその人のある一面にすぎない。乙武さんと話していると有名人の側面と、教育者の側面と、それから冷静を務めながら内側にある情熱が時々垣間見える人間らしい側面がある。全部おとちゃんだ。LGBTの友人同士が、安保のことで言い合っていたことがあるが、当然反対派もいれば賛成派もいる。障害者にも右翼もいれば左翼もいるだろうし、LGBTにもいい人もいれば嫌な人もいるだろう。
現在のダイバーシティを重要視する方向は私はとても歓迎していて、過去の制度で排除されてしまっていたマイノリティの人が過ごしやすい様にすべきだと思う。バリアフリーも進めるべきだと思うし、同性婚も私は進めるべきだと思う。まだまだサポートは不足している。
ただ、人を何かのわかりやすい側面だけでくくってしまうこと自体が多様性を損なってしまうという恐れがあるとも私は思っている。障害者と健常者の会合で誰かが”こんな似た者同士集めてどうするんだ”と叫ぶシーンがある。価値観においては似通った人が集まっていた。誰かが本質的なポートフォリオとは、価値観の分散であると言っていたが、それに近いと思う。
どうしても制度上、人をある程度くくらざるをえないのだと思う。それはしょうがないが、仕方なくそうくくっているのだということには自覚的でありたい。個人の中に多様な側面が存在していて、それらを内包している多様な複数の個人をさらに社会が内包している。
僕は障害者ではなくて僕なんだと言った子がいたが、いたく感動した。誰もがマイノリティなのだ。