Thinking In The Past.

知識と知性

2015.09.12

”記憶するだけの教育は意味がない。インターネットにより私たちはいつでもわからない事を調べられるようになったからだ”

数週間前だったかざっくり言えばこんな内容の記事を見かけて、それから知識について考えている。確かにもうわからない事は検索してしまえば大体の情報は手に入る。

私の大好きな話がある。通訳の方がとある政治家の通訳を行っていた時に”自由民主党と民主自由党の違いは何か”という質問をされて、それに対し政治家は”カレーライスとライスカレーの違いのようなものだ”と答えた。確かロシアの方相手だったと思うが、当然カレーライスもライスカレーもその国に存在しない為、知られていない可能性が高い。そこで通訳の方はとっさに”ハムエッグと、エッグハムのようなものです”と意訳し、事なきを得たそうだ。

おそらくこの通訳の方の頭の中では、カレーライスとライスカレー→呼び方が前後逆なだけでほとんど中身は変わらないという例え→ハムエッグとエッグハムという順番で浮かんだのだろうと思う。この際に大切な事はハムエッグもエッグハムも知っていることだけではなく、両者の関係性が意味するところを抽象化して記憶してあることだろう。

ふわっとしたある概念を捉え、かつそれを相手にわかるような別の何かで表現する。高度に文脈を読まないとこれらが瞬時になされることは難しい。

言葉ではなく関係性を検索したい時一体どうすればいいのだろうか。またはまだ言語化されていない抽象的な概念はどう検索すればいいのだろうか。私は何を記憶するかというよりも、どう記憶するかの方が重要だと考えていて、その記憶の仕方が多様であればあるほど、また普通とは違う捉え方をしていればいるほど、発想がユニークに広がると考えている。検索すれば大方の情報は出てくるが一体何をどう検索するかの方が重要ではないか。

インターネットにより知りたいことはなんでも調べられるようになったが、皮肉な事に一体自分が何を知らないで、何を知ろうとしているのかは未だ私たち側の問題として残っている。まだ言葉になっていない何かについて思いを馳せるような知性を求めていたい。