昨日はインタビューに答えながら、昔の自分の競技時代のことを思い出していて、そういえば僕は応援が嫌いだったなと思った。するのは好きだけれどされるのが得意じゃなかった。
私のトレーニングの仕方はいつも走りながら何かに意識を置くか、または何も考えずにひたすらに走るという両極端なことが多かった。丹念にある動きのイメージを描きながらそれに合わせるようにして走ったり、またはひたすらに好意に没頭するように走ることを繰り返す。その両端に振ることが多かった。私にとって走る行為は何かを書く行為とも似ていて、自分の内側を掘り下げていく行為だった。
実家が静かだったからか、それとも生来のものかわからないけれど、私は無音でないと物事を考えられない。試合の時にはヘッドホンをしてノイズキャンセリングで無音状態を作るほどに音が苦手で、今も講演などで喋っている時に、余計な音が聞こえると、思考が混乱して考えられなくなる。
そういう人間にとって走りに没頭するというのは静かな図書館で本を読むのに没頭するのに近いので、いきなり横でがんばれと大声で叫ばれると、静寂が破られて現実に引き戻される。せっかくあとちょっとで意識が指先までいきそうだったものが頭が混乱してしばらく集中できなくなることがたまらなく嫌だった。
結局グラウンドに一人で練習をすることが多くなって、現役最後の4年はグラウンドに選手が自分しかいない状況で練習していて、考えてみればそれが一番やりやすかった。
少ないかもしれないが僕に似たような選手もそれなりにいるのではないだろうか。そういう選手に対して大声での声援は、夢中で読書をしている子供の耳元で大声で叫ぶのにも似ていて、先人のアドバイスとしては没頭状態に入ったらひたすらにほったらかしておくことがいいと思う。内向的なアスリートの対処方法はまだ確立されていないと感じる。