ある時から、人間というのは逆の一面を表に出しているものだなと思うようになった。みんなに笑われて道化師を演じる人の内側は傷つきやすかったり、クールに認識されている人間の内側が感情的だったり、大人になるにつれ一番痛いところを守るからなのかわからないが、そんなふうに感じるようになった。
昔アメフトの先輩が、球技の文化のいいところは、徹底的に相手のコンプレックスをいじりまくることで、いつしか本人が全部をさらけ出すようになることだと言っていた。確かに一番見せたくないところをさらけ出してしまうとあとは怖いことがなくなる。
幸いにして私の人生は、競技柄人前で自分をさらけ出すことが多く、また人物を鋭く見抜くような人も周りにいたから、自分を隠せないという局面が多々あった。何か発言するたびに、一つ一つの後ろにある考えを見透かされ、えぐるように突っ込まれ、またそれが図星であるから顔から火が出るほど恥ずかしい思いをした。今も自分が発信をする時には、あの人はきっと気づいているだろうなという考えがちらつくので、仮にいい人を演じる時でも少しばかり恥ずかしさを覚えながら演じている。
自分を隠しきれていると思っている人がいるが、分かる人から見るとこういう人は全部見透かされている。うちの子供が、こちらにわからないようにものを隠そうとするが、丸見えになっているあれと似ている。ひとつひとつの言葉の奥にあるその人の本当の感情が透けて見えている。何を隠したいかも、どう見せたいかも、どんな人間であろうとしているかも、また自分のどこが嫌いかも、全部見えている。見えているとおそらく目の前で告げられたことがないから隠せていると思っているのだろう。
経験上、早々に参ったをして、自分の本性をさらけ出しておいた方が後々楽だし、何かとやりやすい。隠す人は、本当に見透かしてくる人を恐れるし、また見透かしている人は隠す人を傷つけないようにしたりするのに疲れるからか、あまり付き合わなくなる。だから言葉は悪いが、隠す人は隠せる程度の相手としか付き合えなくなっていく。
最も認めたくないものを認めればいいだけだと言ったのは、確か加藤諦三さんだったろうか。はしかと同じで人生の早いタイミングで参ったをした方がいいと思う。遅いとこじらせる。