随分前に諦める力という本を書いたのだけれど、なかなかいいことを言っているなと最近思う。いや、むしろ昨今の社会の空気の中で、余計にあのコンセプトが気になり始めたというべきか。
例えば、テレビの世界があるけれど、最近は事務所をタレントが出る出ない、分裂するしないという話が多い。そういった騒動が一つ一つ取り上げられて語られる。しかしながら考えてみると、夫婦ですら関係解消が珍しくない時代に、形式上はどこかと契約をしているだけの状態だから、いつ解消されてもおかしくない。そのリスクは昔から知られていたので、表裏の力で一旦成功したタレントの移籍を制限してきた。最近はそれをやりにくい社会情勢になり、タレントが本音を話し出したように見える。
スポーツ界にも定期的に不祥事が起きるが、現場にいた身としてその多くは外部の人間との流動性が低いことが問題の根源にあると思う。どの競技団体も選手が引退した後にお世話になる世界は、自分の出身競技団体になることが多い。その団体の人材流動性が低ければ、多少の違いはあれど、ある程度権力が集約されていく。実際にそうかどうかはともあれ、選手は自分の現役時代の振る舞いが引退後自分が競技団体と関わる時に何らかの影響があるのではないかと勘ぐり始める。そうなると、私のように外に出ることを決めた人間以外は、どうしたって忖度がある。日本選手のコメントに、組織への提案、改善策の要求が少ないのはそういった背景があると思う。
私は常々日本社会の問題は人材流動性だと思っていて、人がとにかく流れないので、組織がムラ化し、問題を起こしているように見えている。組織への忠誠心の裏返しなのかもしれないが、忠誠を誓い関係が近づきすぎれば、社会の常識より組織の論理を優先するようになる。武士道では至極の愛は諫言にありと書いているが、わざわざ強調しなければならないほど組織に染まれば反対しにくかったのだろう。私は個々人がはっきりモノを言うように訓練し直すと言うのは時間がかかるし現実的ではないので、ひたすらに人を入れ替える(しかも意思決定層の)ことしか対応できないと思っている。
冷静に見てみれば、引っ越しと同じようなもので、契約先を変えたり、組織を変えたり、産業を変えることは大した問題ではない。特に先が読めない時代では個人は上手に船を渡り歩けた方がむしろ安全なことの方が多い。産業や企業なんて昔からどんどんなくなる運命にある。代わりに新しいものが出てくるから心配しなくてもいい。にも関わらず人材流動性が低いのはなぜか。それはひとえに、日本人が辞める経験、変える経験を人生でしてきていないことに関係していると思う。一回目が怖いだけだが、人生でまだ一回目が訪れてない人もいる。
日本人は、辞める練習をしないといけない。外の世界がどうなっているかを定期的に観察した方がいい。また過去の経験から比較できるようになるべくたような経験を持った方がいい。辞めることにはそれなりのリスクがあるというのは確かだと思う。ただ、正確に何が危険かを理解しなければならない。実際の危険と、本人が恐れている感情の間には、とても大きな距離がある。例えば私の母親は外国に対し過剰な警戒心を抱いていたが(むしろ東京にすら!)いざ一緒に旅行に行ってみると大した違いがないことを悟る。知らないことは恐れを過剰に拡大させやすい。恐れはただの思い込みに過ぎないが、人生長い間思い込みを持って生きてくると、その人にとっては動かしがたい現実のように感じられるから厄介だ。
日本社会は別れにウブすぎる。出会って別れるのは当たり前で、そんなことにいちいち騒がないで、各自それぞれ自分に合うところを探した方がいい。私は日本は辞める練習の量が圧倒的に少ないと感じている。