Thinking In The Past.

若くて綺麗な女性

2018.04.20

いくつかの取材経験を経ると、この人は他と違うと感じさせる人がいる。曖昧なまま流してくれない。本質的なところを柔らかくついてくる。男性女性と色々いたが、やはり鋭いのはある程度年齢を重ねた人が多かった。なんにせよ技術が習熟するには時間が必要で、長い時間積み重ねた人のアドバンテージはそれなりにある。

一方で、どうして、アナウンサーは若い女性が多いのか。一般社会で考えれば、入ってしばらくは技能を磨く時期があり、それで技能をある程度習得したら現場に立ちさらに修練を積む。アメリカのように企業内であまり育てる文化がない国であればわかるが、日本は概ねどの業界も早い段階で採用し鍛えて育てるモデルだから、早い段階で現場に立つというのは珍しい。

私のような下世話な頭で考えるに、やはり若くて容姿がよい女性がテレビに映っていると、それなりに人目をひくのではないかと思う。もしそれが正しいならテレビの世界のそのような女性観はやはり問題だと言われそうだ。一方で、実際に誰が出るかによって視聴率には差が出るのも確かだ。仮に議論の内容や、語られていることよりも、女性の年齢や容姿で数字が変化すれば、テレビの世界はそれに最適化する。

世界中そうではないかと言われると確かにそのような傾向はある気もするが、私の知る限りでは流石にアンカーマンやそのサポートをするようになる女性で若い人がやっているのは珍しい。日本はその傾向が少し強いように感じる。特に幼さの面を表に出すことが多い。

松岡正剛さんのフラジャイルという本の中で、日本文化の中にある幼さへの憧憬への考察が書いてある。戦国時代の稚児小姓文化といい、何か幼く無力な存在に特別な目を向けるというのがこの国には根深くあるのかもしれない。テイラー・スウィフトと昨今の日本のアイドルを見ると、随分と方向性に違いが見られる。成熟と無垢。

一歩引いてみれば、私たちが今向き合っているのは、実力より、容姿や年齢、性別またその人の所属肩書きで評価をする文化が崩れかけ、個人そのものを見て評価しようとする狭間で起きている、文化的摩擦なのではないか。これまで一番悔しい思いをしているのは実力で勝負したかった若い女性かもしれない。きれいなお嬢ちゃんというカテゴリーに無理やり入れられ、何を言ってもそのカテゴリーでしか見られない。そういえば、いわゆる頭の固いおじさんと話をしていると、いくら自分の話をしても最後の最後までアスリート、30代、男性というカテゴリーでしか話してくれないことがある。偏見がある人は、その人そのものを見ない。

さて、このような文化を変える壁は一体どこにあるのだろうかと考えながら、私は今日もテレビを見てあの人綺麗だなとにやにやしている。敵は内にあり。