Thinking In The Past.

自由について

2017.09.01

[:ja]昨日は全社会議だったのですが、月次の報告も一瞬で終わってしまうので、毎回自分の考えを発表することにしました。今回は、自由についてです。

自由な社会を作りたいというのが私の考えですが、表面は偏見のない、誰もが自分らしい表現をできる社会をということになりますが、裏面は少し残酷な側面があります。自由には責任が伴い、そして好むと好まざると関わらず自分の人生で責任をとるということを自覚するというのが私の考える自由な社会です。

人生はそもそも不公平で、どのような人生に生まれつくか、どのようなことに遭遇するかを自分では選べません。その点で人生は思い通りにはならないのかもしれません。一方で、どのような局面においてもどのように生きるかという選択は残されています。フランクルによれば、アウシュビッツの中でも、自らのパンを分け与えるかどうかの選択肢は残されていたと言います。

私の家は、本当に何をするかどこ進むかに関し、全く自分の自由にさせてくれました。一度もこうした方がいいと言われたことがありません。ただ、一方で進んだ大学で悩んだり、自らの選択を悔やんだりしても、話を聞いてもらえません。したところで、静かに聴き終わってから”でもあなたが選んだことでしょう”と言われるだけです。

同じように、私が誰かを選んだ時、うまくいってもいかなくても、それはその人ではなくちゃんと適任の人かどうかを見抜けなかった私の責任だと考えます。人には性質があり向き不向きがあります。それを見抜けなかったのは他ならぬ自分であろうという前提に立ちます。

同じように相手が自分を選ぶ際にも、仮に予想と違ってもそれは選んだあなたの責任ですよねという立場をとります。もちろん人並みになんとかうまくやろうとしますし、せっかくだから仲良く楽しくやろうと頑張ります。けれども、根底には人間は個人であり、個人として自由に生きるということは愚痴を言わずに選択の責任を取り続けるということだと考えています。そういう意味で、選べるにもかかわらず選びもせず、現状に拗ねてばかりいる人間を軽蔑します。

日本においては相当に選択の自由が許されていますから、進学、就職、住む場所、恋愛相手、かなり自由が利きます。自由が利き自ら選べるということは結果どうなるかも含め、自分の選択にかかっています。

自由とは覚悟の話だと私は考えています。自由は苦しい孤独な道です。エーリッヒフロムは、孤独に耐えきれず人は自由から逃走し、隷属と依存の道を歩むと言っています。孤独に耐えきれず人は、何者かの下に入ることで、または何かの私物化をすることで、自らの選択を放棄し、結果責任から免れようとします。言われた通りにしている限り、言った側の責任になるからです。ハサミが何かを傷つけた時、責任はハサミを使った側にあります。

けれども、私の考えでは、それでもなお人生をトータルして人は責任をとるということだと思っています。つまり自由から逃走した人生では、自らの人生の手綱を持っていないわけです。ある日、自らが所属する組織やコミュニティが崩壊した時、人が放り出されるとします。困ったなんとかならないかと、彷徨う人に自由な社会はこう突きつけます。

”だってこうなるように生きてきたのはあなたじゃないですか”と。

今どのような人生を生きているかは、今までどのように生きてきたかで決まっていて、明日どのように生きるかが未来を決めるわけです。極めてシンプルで、人生は美しいと私は思っています。それを残酷だと感じる人もいますが、少し寂しいながらもホッとしている人もいます。私は後者の人間となるべく仕事をしたいと思っています。

自由とは覚悟で決まります。自由になるということを覚悟を持って受け入れられない人は生涯にわたり何かに依存し隷属する道を歩みます。自由な社会とは大人の社会です。私は私がどのように生きてきたかの結果でできているということを受け入れる社会です。そしてその覚悟が決まった時、今この瞬間に私は新しい自分になれるのだという希望が湧き出てくると私は信じています。[:]