これだけ選択肢が広がった世の中なのに、人はなかなか自由を満喫することができない。ああ、南の島でのんびり1年ぐらい過ごしたいな、誰にも制限されることなく仕事をしてみたいな。一度ぐらいはそれを考えるが現実的にその選択ができるかというとなかなかに難しい。
何かと対等な関係を築くために必要なのは、いざとなったら関係解消できるという感覚が必要になる。この会社に捨てられたら生きていけないと感じていれば会社に対してはどうしても服従的になるし、この人に嫌われたら生きていけないと感じればその人の機嫌を伺うようになる。
しょうがないいざとなれば、どっか違う国でやり直すか。いざとなれば自分で食っていくか。こういう感覚がある人は所属や目の前のものに依存しない。そうなるとその人は思ったことを口にしやすいし、何かに気兼ねをすることなく自由に動けるようになる。これだけ聞くとなんだ結局強者しか選択肢がないのかという気分にさせられるが、私はそうは思わない。どこでも生きていけるということは能力も多少はあるが、基本的には勇気と適応の問題だ。
私は思うに、人は本当になんとでも生きていける。ブータンやネパール、インドにいくと、このことを痛感させられる。これがなければ生きていけないものなんてない。あるとしたら命と楽しむ気持ちぐらいだ。長期でなかったとしても人生で一度でもこの心境を味わった人は、どこかこの感触を持っている。どん底を経験した人が自信にあふれて見えるのは、復活したからではなく、なくなっても大丈夫だという感覚、さらに言えば大事なものは決してなくならないという感覚があるからではないか。大病、投獄、戦争を体験したものは死生観を学ぶと言われているが、なんとなく腑に落ちるところもある。
なくなったら困るものからは人は自由になれない。こうでなくてはならないという考えが多ければ多いほど、選択肢は少なくなる。厄介なことに人は自分を縛っている思い込みに気づいていない。気づいた時には思い込みではなくなっている。つまり人は、”いつも何かを思い込んでいて、自分が思い込んでいるとは思っていない”
なあんだ怖がっていただけで本当はなんでもいいんだという感覚があると目の前のものから自由になり、改めて本当にそれを自分は選ぶべきかという問いを立てることができる。自分が本当に好きなものはその時見えるようになる。そして自由になった人の意見は余計な配慮から離れ本音で出るようになるので、逆に価値を提供できるようになり重宝されたりする。
自由を阻害するのは自分の恐れとこれまで培ってきた思い込みである。人は自らの定義した枠により、自らの自由を制限する。