もともと物事を斜めにみる癖があるので、昔は結構あれはよくないあいつはだめだということを話していたように思う。今振り返ればどうせ自分が言っていることなんて相手に届くはずがないし、届いたところで自分のことも知るはずがないし、知らない人の言葉なんて気にもしないだろうというのが知らず知らずのうちにあった。
ところが、自分が少し表に出るようになると、こんなにも人に文句を言われたり、嫌われるのは辛いことなのかと感じた。よく言われるように講演者からは聴衆は驚くほど見えている。誰がこちらを見ていて、誰がつまらなさそうにしていて、誰がどんな服を着ているかすら。ただ競技をやっている以上は表に出ざるをえない。だから結局慣れるしかなくて、時間がかかったのだけれどもなんとかある程度は慣れたが、アスリートは真面目だから私のような無神経な人間ばかりではない。幾人かの選手はそのプロセスの中で本当に人に会うのがいやになってしまった。
人を強く批判することにそれほど抵抗がない人間は大きく分けて2種類ではないかと思う。強者か、弱者だ。強者の場合、自分自身がそういうことに耐えられる、または耐えてきたので、ただ人に対しても同じように対応しているというものだ。
もう一つの弱者の方、私はこちらであったが、これは単純に自分には力がないと思っているので、いくらでも批判ができるというものだ。つまり自分が持っている石はあまりに小さく軽いので、こんなものをいくら投げても相手は痛くも痒くもないと思っているし、更に言えば自分は多数のうちの一人であるから気づかれもしないと思っている。目の前に子供がいて、その子に辛辣に当たれる人は少ない。傷つけてしまうからだ。また会場で立ち上がり人を罵れる人も少ない。自分だと気づかれ、目立つからだ。そして自分は壇上の上に立つ側だとは思っていなかった。
実際のところ弱者だと思っている人もあまり弱者ではなく、小さな軽い石だと思っているものも思ったよりも大きく重く、そして受ける側からすると大量の石がくる。世の中で罵りに近い批判の言葉を投げている人のうち本当に意地悪な人もいるだろうが、一定数の人はただ自分の力を過小評価しているだけなのではないかと思う。責任を感じると人は途端に臆病になる。
本当のところは、全ての人が自分には人を十分に傷つけるだけの力があり、また案外と隠れているつもりでも自分は気づかれている、と知ることができればいいのだけれど、なかなかそれを本人が信じるのは難しい。日常的な感覚とも離れているし。ところで、時々有名人への誹謗中傷で捕まってしまう人が誰しも、なぜ私なのか、なぜあんなことで、という困惑した表現をする。あの瞬間が象徴的に感じられてならない。