人間が罪を犯した時に、どの程度その人の意思で行われたのかが問われる。自らの意思の影響は小さかったとするなら、罪は小さく見積もられ(少なくとも社会的制裁の上では)、その人の意思がしっかりとあったのであれば罪は重く捉えられる。タイガーウッズはとても非難を浴びたが、セックス中毒だったということで若干世間の批判が和らいだ。タイガーウッズの中に、もう一人のタイガーウッズがいて、彼が時折彼自身を支配するような、そんなイメージを持った。そうすると確かに罪を求める意識は和らぐ。
犯罪を犯した青年が、幼少期にひどい虐待にあっていたとする。罪はその青年にあるのかそれとも虐待を行なった親にあるのか。また、その親もまた虐待を受けていた。虐待は連鎖する傾向にあると言われている。その場合本当の罪はどこにあるのか。環境によりその人は仕方なくそうなってしまったのか、それともたとえ環境が悪かったとしてもそれに屈してしまったのであればその人本人の罪とすべきか。全てから切り離された個人がいないように、全てから切り離された罪もまた存在しない。
法的には意思はあるとされているが、科学的には自由意志はあるかどうかには決着がついていないそうだ。そもそも人間の意識というということ自体が、解析されてない謎であるから、その意識が持つ意思というのもそうそう簡単にはあるとは言えないだろう。考えみればあなたがラーメン屋の前を歩いているとして、匂いがした瞬間お腹が鳴り”お腹が空いていると認識する”。お腹は空いていたのか、それとも空かされたのか。欲求もまた内発的なものか外発的なものかわからない。
A地点からB地点に移動する最中で人が倒れていて、その人を助けるかどうかを調べた実験がある。たった一つの要素を入れるだけで助ける確率が変化したそうだ。それはB地点に急いで行かなければならない理由のあるなしだった。しかも対象は神学生だった。本のタイトルは忘れてしまったが、いくつかの事例をあげながら、人間に善悪があるというのは極めて怪しく、状況により悪が強く出たり、善が強く出たりするだけだとまとめてあった。確かに私もスポーツがなければ溢れる競争心が人を傷つけたかもしれないと振り返る時がある。
スポーツ選手は意思が強いとされるが、私の実感から意思が強いというよりも、くじけにくい環境を作るのがうまい(多くの場合それはコーチや監督が作っているが)というのが近い。つまりダイエットの際に決して間食をしないのではなく、コンビニから離れて住み、冷蔵庫から余計なものを捨てている。人間はつねに揺らぐが、弱った時に手元に崩れるきっかけがあるかどうかは、強く冷静な時に設計することができる。つまり人間は弱いという前提に立つ人間は崩れにくい。
話は全く変わるが、コミュニケーション能力に乏しい人間が、時折湾曲した表現を理解できずそのまま受け取ることがある。しかしながら恋愛に至る寸前のやり取りは直接的であるよりも、言葉遊びの様相を呈することが多い。空気が読めない人間は勘違いをし、踏み込みすぎることがある。こと恋愛においてはそれは女性に嫌がられる行為になるかもしれない。その罪に対しては、本人は何らかのコミュニケーションでの問題があったことを証明する必要があるのだろうか。
カルテックの下條先生が、罪の認定の観点から意思が必要とされたと、逆転した発想を書かれていた。興味深い観点だと思う。