Thinking In The Past.

罪と意思

2016.07.05

認知心理学が大好きで、研究者の方と話をさせてもらっていると、人間に意思があるというのは随分と怪しいなと感じるようになる。そもそも意思とはなにかという前提に立って考えると、私なんかは迷路に入ったようでいつまでもぐるぐる頭の中で考え込んでしまう。

Caltechの下條先生は、むしろ人間には意思があるとしなければならなかったのは、罪を個人のものにするために必要だったからではないかというアイデアを書かれている。意思がないとするならば誰の罪であるかがあやしくなるからだ。

アメリカでタイガーウッズが不倫騒動をした時に、彼はセックス依存症だということでカウンセリングを受けた。つまり、本当にそうだったかどうかは別としてある種の病であるという前提に立った。個人の責任も相当にあっただろうけれど、病の影響も少なからずあったということで、若干ながら報道が和らいだように思う。

昔会社にいた時に遅刻ばっかりする後輩がいて、ひどい時は会社で業務中に寝てしまうということで、こっぴどく上司に怒られていた。ところが、ある日それは睡眠に関して何らかの障害があったということがわかり、途端に職場の空気が同情的になったのを覚えている。起きていることは同じなのだが、行動の原因が本人の意思で何とかしうることから、本人の意思では何ともしがたい病の領域に移ったからだと思う。

それは本人の意思で何とかしうることなのか、それとも本人には抑制しがたい何かに突き動かされているのか。今の社会は、意思さえあれば全てはコントロール可能であるという世界観と、人間の行動は環境(身体や病なども含む)に影響されていて、抗える衝動もあればそうではないものもある、という世界観の間を揺れているように見える。

覚せい剤依存について、各所で意見の相違がありそれを眺めていたが、この個人の意思の問題か、それとも病なのかの立ち位置の違いが表れていたように思う。

引退して驚くほど、闘争心がなくなったが、考えてみればあれは自分の意思でも何でもなくて、ある年齢特有のテストステロン分泌によって行動が促されていただけという可能性がある。そんな過去についてもっともらしく、自分がどう苦境を乗り越えたかと語っているにすぎないかもしれないと思うと、少し物悲しいが。