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賞状破りは指導? 高校ハンドボール部監督の処分で波紋
この記事にコメントをした。背景に、苦難、型、成長の委託が影響しているように思う。
振り返って何が自分の成長になったかと聞かれると、あの辛い時期を乗り越えたこと、や、自分では気づかない自分の限界を乗り越えられたこと、などをあげる人は多い。私も良い時期よりも、負けた経験や辛い思いをしたことの方が自分の成長につながったと感じている。
こういった経験をした人は、人の成長のためにこれを組み込む事を好む。よく日本特有と言われるが、スポーツの現場においてはあまり国は関係なく、辛いトレーニングを耐え、本気で試合に挑んで悔しい思いや嬉しい思いをする事は成長に重要だと考えるコーチは多い。
型という文化がある。ベストキッドで主人公が意味もわからずペンキを塗ったりワイパーを拭き取っていて、試合でそれが役に立ったというあれだ。人間はもともと無知なので、まず自分の頭で考えたものには限界があるという考えが型の文化の奥底にはあると思う。長い歴史で淘汰されずに残ったものにはそれなりに普遍性があると考え、まずはそれを身につけ、そして自動化された頃に意味がわかり、その後徐々にオリジナルを作っていく。
日本では選手の成長を主導するのはコーチまたは組織であるという考えが強い。選手が主体性を持って自分はこのような選手になりたい、このスポーツでこんな部分を強化したいというイメージを持っていない場合もある。だから状況に合わせてコーチや環境を選んでいくというよりは、所属した組織に身を委ねる事で成長を委託する。コーチもまた、その選手の姿勢を汲み取り、選手のために何がいいのかを考える。成長のために必要な事を考えるのがコーチ、それを受け止めるのが選手という関係になる。
この三つが組み合わさると、どうなるかというと
1、選手はまずは意味がわからない。そもそも自分がどうなりたいかもわからない。
2、コーチが踏み込み、選手に型を教え、どうなるべきかのビジョンを示す
3、選手は言われたことに従う。途中苦しい事や、もう限界だと思う機会もあるがみんなで力を合わせたり、またはコーチに叱咤激励されながら踏ん張る。
4、3を抜けた瞬間に大きな成長がもたらされる。選手もこれまで知らなかった新しい自分に出会う。
5、少しずつ選手が自走していく。
体罰や明らかなハラスメントなどは昔から人が嫌がっていたことが禁止されたということでほぼ皆が納得していると思う。難しい領域は、選手や部下のためを思って厳しく圧力をかけ成長させる手法だ。おそらく問題になる基準は曖昧で、された側が一方的で抵抗できず傷ついた、というあたりだろう。される側の主観によって決まる。
国外を見渡しても、これまでの流れから見ても、おそらくはこの方向は戻らないのではないかと思う。そうなると、これからは”人の人生に圧力をかけて成長させる”ことが難しくなる。日本は人間同士の距離が近すぎすぎたり、遠すぎたりするところがあると思っていて、こと指導においては急接近することがある。そういう距離感がこれからはなくなっていくだろう。金八先生の距離感は危なすぎて取る人が減る。
個人に意識を向けると、日本の選手にやりたいことやなりたい姿を聞いても明確に出てこないことは案外とある。むしろ気がついたらここにいましたという選手や、生涯一コーチのいう事を聞いているという選手もいる。選手だけではなく、日本社会全体として、自分が何かになりたいと明確に設定してそれに適した相手や場所を都度選ぶことよりも、むしろなんとなく行き着いた今の場所が求める人材に適応し、成長の方向は集団に委ねていることの方が多い。
今後は3と4がグレイゾーンに近いのでこの手法が減っていくと思う。結果としてどうなるかというと、将来どうなりたいかというビジョンがあり、また成長のために苦しい経験を好んで選ぶ選手が成長していき(指導者に委ねるよりももっと成長するかもしれない!)、一方で誰かに方向性を示してもらわないと、また誰かに追い込んでもらわないと頑張れなかった人の成長は止まっていく。やる気のない人間を無理矢理にでも目覚めさせる手法がこれからはアウトになる。いくつかのダイエットサービスのように、プレッシャーをかけることすら自主的に自己責任で対価を支払ってやってもらう時代がくるだろう。
冒頭の、苦難、型、成長の委託、は誰しもをそれなりに育てるのに向いている仕組みだったと思う。だから日本の部活動のレベルはまんべんなく高い。これからは動機がある選手が抜きん出て、自分では頑張れない選手は脱落する。ビジョンとやる気がある人間にとっては素晴らしい時代が到来する。ビジョンとやる気のない人間にとっては苦しい時代がやってくる。流れはおそらく戻らないだろう。成長の責任は組織から個人に戻されたと言えるのではないか。
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