私の競技人生で自己問答が始まった最初の問いは、私はなぜ速く走りたいのかだったと思う。それは人に勝ちたいからとか、お金が欲しいからとか、もてたいからとか、歴史に名前を残したいからとかいろいろあったが、それらを突き抜けて奥の方に行くともう自分でもわけがわからなくなっていく。底が抜けるその手前で蓋をすれば、”なぜ山を登るのかそこに山があったから”、という世界観になるのだと思う。
例えば環境に悪影響があることが問題だと考える人がいる。ではなぜ環境に悪影響があってはいけないのだろうか。それは環境に悪影響があれば、いずれ地球全体の環境を悪くし、私たちの命まで脅かされるからだ。ではなぜ私たちの命が脅かされてはならないのだろうか。それは、その時に自分や自分の愛する家族が悲しんだり、または赤の他人であれ悲しむことになるからだ。ではなぜ人が悲しむことはよくないのだろうか。
人が何かをジャッジする時に、価値観が存在する。価値観がないところに良い悪いの判断はない。人間が悲しむことは悪いことだから、悲しまない状態を作るために知恵をしぼることは良いことだと感じられる。人が幸せになることは良いと思えるから、人を幸せにするという理念が通用する。どこかに底がなければ、何かに足をつけなければ、素晴らしいこと自体が存在しなくなる。
価値観という底が抜けてしまえば何もかもにいい悪いがなくなってしまう。それは引いては全てに意味がなくなるのにも似ている。または全てに意味があるとも言えるか。いずれにしても、何かが絶対に素晴らしいという考えにはいたらなくなる。それは同時に、狂信的な状態を作れないことにもなり、なので底が抜けた人は極めて稀な人が宗教指導者になったり、または個人的に精神的な成功は納めても、実社会においての地位や名誉を得ることは珍しいように思う。
多くの人の幸せのためにはどこかに底を作る必要がある。最近良きリーダーの役割とは、底を作ることなのではないかと考えるようになった。