鈴木大佐についてはあまり知らなかったのだが、調べると戦時中にメディアに対して言論統制を強いた張本人として、すこぶる評判が悪い。私も、戦時中は、メディアを軍部が統制して大本営発表をひたすらに流させているイメージが強かった。ところがこの本を読んでだいぶイメージが変わった。
農村部出身の鈴木氏は、軍で教育的な役割を担うことが多かったという。精神主義ではなく、合理的に考える、いやむしろ合理的に考えすぎる側面が目立つ、貧しい中で苦学したインテリだった。日記内でも、特に軍隊内での体罰や理屈なき叱責に対してはかなりの批判を行なっている。彼の価値観の根底には常に、自分の出身地である農村部の労苦があったように見える。弱者に共感し、自分よりも家族のことを優先し、社会の格差を慣らすことに意欲を持った。
ところが、この性質が大戦中に、皆が一丸となって戦わなければならない非常時に、個人主義に走ることを嫌悪し、言論統制へ力を込めさせる。個人主義を否定し、全体主義を肯定する。彼にとっては言論統制も、軍隊内教育も、どちらも利己的な面を抑制し、全体のために動く人を育てる機能と捉えていたように見える。
昨今、スポーツ界で不祥事が相次いでいる。上意下達、同調圧力など、外部から見ると酷いところもあるものだと思うかもしれないが、事件になっているところは別としても、この文化の中にいると実は案外過ごしやすい。一言でいうとその根底に我々はみんなで一つだという家族主義が流れている。田舎のヤンキー社会も似ているかもしれない。
乱暴かもしれないけれども、家族主義と個人主義の二つに分けてみる。家族主義は暖かい。家族主義とは先輩は後輩の面倒を見る。なぜ面倒を見るかというと、面倒を見た方が将来いいことがあるからとか、優秀だからとかそういう理由ではなく、ただ仲間だから面倒を見る。家族主義では仲間だから、仲間であって、そこに理由はない。個人の優秀さを誇るような人間は嫌われる。不器用であっても、組織のために尽くす人間を家族主義は見捨てない。つまり家族主義は個人の優劣よりも、帰属意識や忠誠心で人を評価する。優秀さで戦えない人にはそれは救いになる。
その代わり、同調圧力は強い。家族主義にはだいたい掟があり、帰属意識を示して掟を守っている間は愛されるが、それを逸脱すれば排除の対象になる。余談になるがいじめが起きる構造は、仲良くするということを第一義においた集団が、仲良くするということはひたすらに摩擦を避けることだと認識し、摩擦を起こす存在を排除することだと私は思っている。だからいじめを止めるためにもっと仲良くすることを要求するというのは理屈が通らず、仲良くなくたって構わないし、2度と会わなければそれでいいと言わなければいじめは無くせないと私は思う。話は戻り、家族主義は往往にして窮屈になる。個人を個人として許してくれないとところがあり、あくまで全体の一部としてしか認められない。
家族主義は、個人主義と相性が悪い。個人主義は役に立つものを重視し、役に立たないものを軽視する性質を持つ。だから個人主義が進めば分断が起きる。個人主義の世界が個性が大事と強調するのは、見方を変えれば、全ての人に価値があるということにするための方便とも取れる。役に立とうが立つまいが、仲間なんだから評価に上下をつけないという考え方は、人が流動化し、集団に固定されない個人主義では成り立ちにくい。家族主義は逃げられないからこそ、仲間内の結束が高まる。個人主義は、自由の代わりに、集団の帰属意識が薄まるので溢れた人をすくい上げにくくなる。
私たちがこの国で今いる場所を、人を集団の論理で縛り付ける家族主義から、個人主義への転換点だと考えてみたい。自由になる一方でそこに孤独感や不安を覚えるのは、個人主義の世界では、もう帰属意識を示しても、忠誠心を示しても、受け止めてもらえず、そんなものより能力を、結果を示せと言われるからではないだろうか。家族主義と個人主義では愛されるための方法が違うからだ。個人主義の世界では結果を出せば愛される。
私は自由を好むので、抑圧的で自分を押し込めない社会の方が望ましいと思う。ただ、そうした価値観が広がりきった先に、一体誰が社会全体のことを考えるのかという疑問が浮かぶ。もはや優秀な人にとっては住む国も選べる。昨年読んだこの本での社会の分断の様子を見ると、一度広がった分断を再接続するのが大変なことなんだろうと思った。