言葉には文脈というものがあり、隠れた意図が潜むことがある。奥にある意図を理解しながら会話ができることを我々は知的と感じる。ただ、この深読みをしすぎると自分のなかで勝手に話が膨らんでしまい、次第に敵意を意識し、それから自らを守るようになることがある。私はこのような性質を持った人を、守る人々と呼んでいる。
守る人々は、他人の言葉には裏があり、人間はあまり信用できないという人間観を持っている。他人の言葉には自分を攻撃する意図が潜むことが多いと考えていて、それについて常に身構えている。守る人々の会話はいろいろと展開するが大きくは自分は低く見られていないかという警戒心と対抗心が前提にある。
守る人々と問題点を話し合う時に、気をつけなければならないのはあくまで議論を抽象的に空中に置かねばならないということだ。具体的になり個人の行動を振り返るようになった途端、守る人々の意識のほとんどは”私のせいじゃない”に向けられ、議論が噛み合わなくなる。そうすると会話も必然、傷つけないように意識されることが第一に置かれ、表面ではグルーミング的な会話に終始し、本当の話は会議室の外で行われる。
守る人々は一定以上に想像力がある。それほど想像力が働かなければ他人の言葉の裏を考えすぎたりしなくていい。だが残念ながら想像力が働いてしまい言葉の裏を読んでしまう。正確には読もうとしているというよりもほぼ自動的に自身の中で変換されてしまっている。守る人々は反射的に言葉をそのまま受け取れなくなっていて、自分の人間観を介して受け取った言葉に反応するのだが、その返答には奥に自らの防衛の意図が隠されているので、それが相手の警戒心を引き起こす。そしてより疑い深さが強化されるというプロセスが繰り返されている。
守る人々は落ち着いて会話をすることができない。会話の最中落ち着いて相手に興味を持ったり考えに思いを巡らせることができない。特に大人数での会話は意図の意図を読みすぎて混乱し非常に疲れる。守る人々と本当に打ち解けて話そうと思うと会話の大部分をマッサージ的にする必要がある。私はあなたの敵ではないし、あなたを貶める意図もありませんということを繰り返す必要がある。それが閾値を越えるとようやくゆったりとした会話が始まる。ただし、一瞬でも琴線に触れるとまたファイティングポーズをとるので、グルーミングに戻ることになる。
俯瞰してみれば、他人が自分をバカにしたところで、嫌味や皮肉を言われたところで、自分自身の人生とは関係がない。守る人々は自分の価値と他人の評価を切り離せない。守る人々が守っている自己イメージが変化することをさほど他人は気にしていないが、わかっていてもそれを投げ出すことができない。守る人々はこうであらねばならないに縛られている。
守る人々には癒しが必要である。より多くの休息時間と、気を使わないで済むコミュニケーションがいる。満たされている間は守る人々はリラックスすることできる。もしこれらが不足すれば、一人の時間すら、過去に行われた会話においてこんな意図があったのではないか、または自らの言動がこのように受け取られてはいないかということで頭がいっぱいになる。守る人々にとっての休息とは想像することが止まることである。