Thinking In The Past.

個人は弱く理性的ではないのか

2019.03.01

人は目に触れる機会が多いものを好ましいと思う傾向にあり、接触機会の多さと好ましさは一定相関するそうだ。受動喫煙のシーンを映像から取り除こうとするのは、それを見た人たちが受動喫煙に対し好ましいと思わないまでも、許容する傾向にあるからだと思う。一方で、見たものを許容するのであれば、表現は気をつけなければならなくなる。全ての映画は、ジェンダーに気をつけ、政治的表現に気をつけなければならなくなる。これは表現の自由に一定の制限をかけることと引き換えになる。

公開授業の中でハラスメントが行われたという訴えがあった。授業の内容に性的なものがかなり含まれていたのだという。人は見ることで傷つくことがあり得る。体罰を受けた本人だけではなく、それを見ている人にも心的ダメージは一定ある。一方で仮にクローズドな場所でも人を傷つけてはならないのだとしたら、人がいる前では常に表現に制限をかけなければならない。

人間は二つの考え方をすることができる。個人の意思の力よりも社会の力の方が強いので社会の側が規制で個人を守ってあげるべきだという考え方と、個人の意思の力は社会よりも強いので、社会の規制より個人の教育によって対応するべきだという考えかただ。私は後者の立場に立っている。私は個人の力を信じており、嫌ならその場でnoと言い立ち去ることもできると考えている。また、仮に受動喫煙のシーンをたくさん見せられても、一定の理性のもとでそれと現実は違うという自己抑制することができると考えている。

多様な人々が表現するということは、お互い気に入らない、または傷つける表現が出てくることを孕んでいる。多様性の確保とは愚行権の行使に他ならない。愚行権とは、自分に直接被害があった場合を除き他者が愚かなことを(自分にはそう見えることを)行うことを許容するというものだ。お互い想像力を働かせれば、相手が何を嫌がるかはわかるはずだという教育姿勢は、違う考えの人間を著しく排除する。なぜならは人は違い、想像には限界があるからだ。

また、社会には一定の数、相手の心を読めない特性を持った人がいる。発達障害と呼ぶ場合もあるのかもしれない。このような人は相手の気持ちになって考えれば自ずとわかるはずと言われることに混乱する。時には空気が読めないと怒られる。もし、相手のことを考え明文化されないルールに従って配慮が必要なら、このような特性を持った人たちがさらに生きにくくなってしまう。

私は社会が個人の側を配慮し規制を強めていくと、結果として社会は危険が少なくなり、また個人は表現に対し萎縮する方向に向かうと思う。そうした社会においては、個人は自分が置かれた状況は自分自身の力ではなく社会の力によってそうなったのだという感覚を持ち、自信を失うのではないかと危惧している。グランドキャニオンには危険なエリアに柵がない。自分の身を自分で守るということを前提としている。これまでに命を落とした人は少なくないのだが、それよりも景観を守るからなのかそれとも他の理由があるのかわからないが、今も柵はない。私はここに開拓時代から続く自分の身は自分で守るというアメリカ精神の前提を見る。

日本はアメリカと比べ、個人の安全に対し社会の側が責任を取る傾向にあるように思う。だから公園でボール遊びで問題が起きれば個人の話し合いでの解決より全面禁止で対応する。昨年読んだ本で面白かったのは言論統制というもので、戦中に言論統制を行った鈴木少佐について書かれたものだ。彼の着想は人を啓蒙し望ましい行動を取らせるという点で、メディアと教育は本質的に同じであるということにあった。苦学生で真面目な人だったそうだ。戦中言論統制は一つの善意によって推進された側面があるということが興味深かった。個人が個人の力を放棄するなら、社会が面倒を見るしかない。社会がある基準によって全体で統一を図ること、それは過去には全体主義と呼ばれていた。

私は奥ゆかしい日本の文化は好きだが、人前では意見を表明しないが、後出しジャンケンで違うところで意見を言う文化はあまり好きではない。嫌なら嫌というべきだという方向にもう少し寄せた方が遠慮もなくなり人は寛容で生きやすくなるのではないか。