Thinking In The Past.

スポンサーと芸能人

2019.01.03

ローラさんが辺野古の埋め立て反対に署名をしている。個人の意見を表明することはいいことだとか、CMを頼んでいるスポンサーとしては迷惑だという意見も出ていて、興味深い。

スポンサーは芸能人の何を購入しているのだろうか。例えば、芸能人が軽自動車の広告に出ているが、本当に乗っているのかもしれないけれど、そうではない可能性が高いだろう。しかしながら、視聴者もスポンサーもわかった上でお金を払い肖像を使う。その芸能人がその商品をいいと思っているのか、実際に使っているのかとは別として考えられる。もちろんそうではない場合もあり、価値観の合意のパターンもあるが、相思相愛はなかなか難しい。

スポンサーはどこまで買えるのか。マイケル・サンデル教授の著書で、ある小説家が自分の小説の中にブランド名を登場させることをスポンサーに売っていたとして問題提起されていた。一方で、ルネッサンス期に教会がパトロンになり画家に宗教画を書かせていたことには抵抗感がない人も多いのではないか。表現全体の対象に縛りをかけて買うことは許されても、表現の細部に入り込むことへの抵抗なのだろうか。それとも宗教は別枠なのか。

芸能人が例えば自分が出ているドラマの中で自分のスポンサー名や商品名を繰り返し発言したら私たちはどう思うだろうか。一方でドラマには実際にスポンサーがつき、合間にCMが流れている。台詞として登場することと、番組の間にスポンサーのCMが入ることの違いは何か。

昨今ネットメディアが問題になったが、その際に有効だったのは広告を出している企業に圧力をかけることだった。資金源を立つことは強い圧力をかけることができる。メディアの場合は少し違うかもしれないが、支払う側は支払う側でそれを応援しているという立場が少なからず出てくる。芸能人がドラッグなどで逮捕されればスポンサーは降りる。それはそのような人を応援するのかという世間からのイメージダウンを避けるためでもある。

これらの話は、行き着くところ何を期待してスポンサーをし、何を期待されてスポンサーされるのかということなのだろうと思う。例えば普段から政治的発言を繰り返しているような人間にスポンサーをする場合、ある程度の発信も含めてスポンサーしていると考えられる。また、そのような芸能人がスポンサーから発言の自粛を求められれば自分の活動の根幹になるから抵抗するだろう。一方で例えば自分の考えよりはファンへの感謝の言葉ばかりを繰り返すアイドルの女の子にスポンサーをしてその子が急に政治的な立ち位置を取れば、期待からずれてスポンサーは慌てる。期待がなければ失望はない。

そう考えると、これらは発信が盛んになった社会人にも当てはまるのではないか。全ての人間にはステイクホルダーがいて、その関係性は期待によって成り立っている。自分の思想信条、発信する内容は、応援する人を減らしもすれば増やしもする。応援者を見て発信内容を決めるのか、信条に従い発信をしそれに共感してくれるファンを待つのか。ある程度の影響力を持つ人間は政治家と同じ悩みを抱え始めているように見える。賛成か反対か、言うのか言わないのか。集めた力を何に使うのか。

今の時代には期待値コントロールの上手下手によって随分と生き方が変わる。期待されていることと提供していることがずれていれば双方にとって都合が悪い。