Thinking In The Past.

アイヒマンとスポーツ

2018.06.06

アウシュビッツ強制収容所の元所長であったアイヒマンがエルサレムの法廷に現れた時に、そのあまりに平凡な様子に人々は驚きました。あれほどの罪を犯したとは思えない冴えない中年男だったからです。その裁判中アイヒマンは、どんな質問にも自分は命令されてやったと答えるのみで、結局世間が期待したような答えが返ってきませんでした。それを傍聴していた哲学者のハンナ・アレントは“20世紀最大の罪は凡庸な悪によってなされた“と語りました。

今回の日大アメフト部のタックル問題を含め、ここ数年スポーツ界には様々な問題が起きています。その多くの組織に、全体が権力によって支配されている構図が見えてきます。しかしながら、その権力の中心を追いかけていって、白日の元に晒してみると、威張ってはいるけれども、それほど私たちと変わらない普通の人が出てくることがあります。そんな時は決まって、そんなはずはない、どこかに悪の中枢があるはずだと私たちは探し回ります。そしてそれが見つからないときは、非常に大きなフラストレーションを抱えます。

アイヒマンがただのイエスマンということであれば、罪はヒトラーに集約されますが、そのヒトラーは民主的な選挙によって選ばれています。制度上民主主義は間接的であるにしろ、最後に国民に責任が行き着いてしまいます。ですが、当然ほとんどの国民はあんな結果を望んではいたとは考えられません。にも関わらず、あのような残酷な出来事が起きましたし、途中で食い止められなくなりました。

無人島で一人で握る権力がないように、権力は必ず誰かが明け渡すことによって集約されていくわけですが、権力が集約されることを望んでいるのが当の本人だけであれば、いずれ権力構造は瓦解するのだろうと思います。どのような強権状態であれ、その状態が望ましいと思う人間が一定量いてこそ成り立つわけです。強い権力を持つ人間と実際にあってみると、仲間に慕われていてとても面倒見がいいことは少なくありません。誰も担がない神輿は地面に置かれたままです。

私たちは自由になりたいと願いますが、その実自由は非常に厳しいものです。自由には責任が伴います。命令を出せば、その命令によって起きた問題は命令を出した側の責任になります。アウシュビッツを見学しましたが、見事なまでに仕事が分断されていました。例えばある一人の職員の仕事は、右からきたジャケットやメガネ、ベルトをもう一度市場に流すために数を数えるというものでした。その右側に誰かの人生があるということはおそらく気づいていたのだと思いますが、それは業務の範囲外でした。

最近あった若者が面白いことを言っていました。
“働き方が今見直されてるけど、働く時間と休む時間を決めるって、昔の体育の時間の、きをつけ、やすめ、みたいだよね”
自由には責任が伴います。自由は獲得せねばならないものではありますが、獲得する側にも相応の覚悟が必要になります。