Thinking In The Past.

なぜスポーツ組織は世間から見て不可解な対応をするのか

2018.09.03

メディアをみられていて、スポーツ組織の問題そのものよりも事後対応に不可解な印象を持たれている方も多いのではないか。簡単に言えば危機対応の専門家がいないか、いても話を聞かないかのどちらかではないかと思うが、組織文化も影響していると思うのでそれを説明してみたい。不可解な対応とは私から見ると以下にあげられた要素ではないかと思う。

1、高圧的である

2、質問にうまく答えられない

3、片側に肩入れをする(またはしているように見える)

4、情報も出揃わないままに意思決定し、それに批判が集まると決定を翻したり、二転三転する

1、スポーツは日本では基本的に教育の色が強いから、コーチは先生で、選手は生徒であることが多かった。生徒がいずれコーチになった頃、元コーチは役員になっていることも多いので、話す相手も含め先生が生徒に諭すようなコミュニケーションの形になりがちだ。特に悪気があるわけではない場合も多いが、昭和の頃の頑固な先生だとイメージすると理解しやすい。生徒も従順で反論しない人が多いので余計にそのコミュニケーションが加速しやすい。業界内外の人材流動性も低いので、社会において期待されている役割(公益法人のCEO)、スポーツ界での親分的な役割がずれていても、それを指摘できる人が少ないか、わかっていても言えない。それがずっと続いていたのだが、何かのきっかけで社会に出るようになり、みんなが驚きの目で見ているのが現状ではないか。

2、1にも関連するが、業界内での人材流動性が低く、かつ人間関係が複雑に絡み合っているために、オープンに議論をするというよりも根回しと忖度で意思決定することが多い。だから、会議での発言はだいたいあらかじめ予定されていて、会議の前には重要なことはすでに決定していることが多い。このような文化になれると、オープンな議論の経験が不足する。目の前の若者が反論してきたり、データを示せと詰められる経験がない。だから、公の場に立つ前におそらく突っ込まれるであろう想定質問と、それに対応する答えがなんになるかがわからない。普段の対応は比較的スポーツの話題に絞って質問されるスポーツ部で、今対応しているのはおそらくワイドショーや社会部なので質問の内容も違い余計に混乱しているように見える。

3、業界内外の流動性も低く、想像の通り学閥や出身地閥もあり、その中からトップ層の人間が出てくる。人間関係がすでに複雑に絡んでいる状態でトップになっているので、不可能ではないが偏りを防ぎにくい。親分は子分をまとめて引き上げる役割を担うが、その子分がスポーツ界の中のさらに一派である場合が多く、外から見て片方に肩入れしているように見える。余談ではあるが、教育文化から発生していることもあり、部活の指導者に対してそうであるように、コーチにプロとしての十分な給与を支払うという文化がない。そうなると今一番良い選手を育てている指導者と代表の指導者が兼任されたりということが起きる。選手選考に関してアドバイスできる立場にもあるので、厳密に考えれば利益相反が懸念されるが、ボランティアかまたは極めて少額の謝礼の設定になっているので、プロを雇えずそうならざるを得ないことが多い。体制も影響しているように思う。

4、シンプルに言えば、プロが少ないことに影響している。つまり、危機管理の対応や、メディア対応をやれる人間が内部にいないか頼める人間が内外にいない。もっと根本的な問題は、自由闊達に議論をする空気があまりないために(ある協会もあるのでそこには申し訳ないですが)、何か起きた時に客観的にあらゆるリスクを想定した上で、意思決定することが少ない。限られた情報の中で少数で意思決定するために、予想外の出来事が起きた時に結論をひっくり返してしまう。かつ法的な観点、会計の観点から意見を言えるボードメンバーがいない協会もあり、一つ一つ外部に出して確認をするために意思決定が遅れる。事後対応に見えるのもこのような体制が影響しているように思う。

以上が私の見立てになる。内部で働いたことがないので、ずれていることも多いかもしれない。指摘をもらえば修正します。いずれにしても、五輪選手の全員、また子供達もなんらかの協会に所属をしている現状を考えると、協会運営の健全化を早急に進めてほしい。