上下関係がある中で育つことは大事だったなとふと振り返ると思う。今の世の中の空気では上下関係を意識することはあまり人気がないと思うし、機能しなくなっているどころか弊害が多いと思うけれど、私自身が上下関係を重視する環境で育ったことはとても人生に良い影響を与えていると思う。
田舎で育てば、多かれ少なかれ上下関係を意識させられることが多い。父親、先輩、先生、近所の偉い人、などなど。なぜあちらを敬わなければならないのかの明確な説明はないけれども、そうしなければならないと迫られる。私は先輩にタメ口で話すような生徒だったのでちゃんとこの枠組みに入っていたかというと微妙な気もするが、それでも自分なりには気を使うこともあった。
何がいいのか。一言で言えば、瞬時に関係性や背景にある文脈を察知し、適切な振る舞いや発言をできるようになることだと思う。一歩引いてみると、特に一度でも欧米諸国に留学したことや滞在したことがある人には、日本にある強固な上下関係はおかしく見える。それぞれの個人が大事で、年齢や地位は関係ないだろうという見方も多い。一方で、アジアの国で王室の方にルームメイトに話しかけるように話していたジャーナリストを見て、不快に思ったと話している人間は多かった。相手国で尊敬されていることを自分も尊重するというのが交流の一歩だと私は思っている。また、席順なんてどうでもいいいという風潮もあるけれども、途上国に行けば会食では席順を意識されることが多い。
ベトナムの田舎町で、撮影をする際に村長さんに挨拶に行く必要が出てきてそこに伺った。そうすると朝の11時ぐらいだったが、いきなりどぶろくが出てきて、これを振る舞いたいと言われた。高床式の座敷でちょうど村長さんが正面に座っていて、両サイドに数名いて私は謁見しているような構図だった。勢いよく飲んだのを見て、ペットボトルに入ったどぶろくが出てきたが注がれるままに全部飲んで、出されたものも食べた。一通り食事を終えるとあとはなんでもしていいと言われて私たちは撮影を許可された。
つまるところ各国それぞれに大事にされている文化があり、尊敬している何かがあり、ヒエラルキーがある。それをわかった上で無視するというコミュニケーションもあるが、そもそもわかっていな人はあまり賢くない、よろしくないと見なされ活動を制限されるか有利にことが運ばない。
部活に入った時に、これは環境に早く適応するというゲームだと感じていた。一歩外に出れば違う文化がありまたそこに適応すればいい。理想の文化圏があるわけではなく、それぞれに偏りがある中で、その都度自分を変えながら適応すれば(しているように見せれば)いいと考えられるようになったのも上下関係を学んだことからきている。ただ、大事な点は上下関係に乗ることもできるし、断ることもできるという柔軟性を自分に持つ必要があることだろうか。
ディズニーランドで普段では絶対しないダンスを求められた時に、いやそういうのはと断ることもできるし、なりきって踊ってみるというのもできる。所詮はどこの文化圏でも偏りがあるのだから演じてみせる能力が身についたのは多分に上下関係から学んだことだ。